お金をもらうのに躊躇する時の対処法【第711回】
目次
「お金をもらうのに躊躇してしまいます。」
この悩みにピンとくる人と理解できない人は半々に分かれると思います。
イケイケの経営者にとっては理解不能だろうし、
一般的な感性の人にとっては共感しまくりなはずです。
ちなみにこの悩みをもつのは2つのシーンです。
1つはビジネスを新たに始める時。
1つはすでにビジネスをしていて仕事を受けるか受けないか検討している時とか、
本当はいただきたい報酬を請求するかしないか悩んでる時。
このテーマは何度か取り上げてるんですが、
先日も数件同じような悩みをお聞きすることがありました。
きっと普遍的な悩みなんだと思うんですよね。
ということで、今日もこの手の悩みについてその理由と対策をお話します。
動画で見る|お金をもらうのに躊躇してしまいますか?
文章バージョン続き|お金をもらうのに躊躇してしまいますか?
僕もそういうところがありました。
「お金をもらうのに躊躇する。」ことが多かったということです。
表面的には変わりましたが、今でも根っこではそういう性格なのかもしれません。
といっても僕の場合は「請求できない。」とか、
「このサービスで僕なんかがお金をもらっていいのか?」
そんな可愛げのあるものじゃないんです。
例を出して話しますね。
知人でも顧客でもいいんですが相手がこんなふうに話してくれたとします。
「こういう仕事をしたいんだけど、だれかに助けて欲しいんだよね。」
「河野さんはこの仕事に興味ありますか?」
それが完全に興味がなければいいのだけど興味があったとします。
単純にやってみたかったり、自分ならできそうだと考えていたとします。
でもこの例だと相手は「お願いします。」とは言ってませんよね?
「ぜひお願いしたい。」と懇願されてるわけじゃない。
となると僕がこの仕事をする場合の返答は「やらせてください。」であるべきです。
十歩譲っても「やりましょうか?」と言う必要があります。
これが言えませんでした。
この時の心情は「お金をもらうのに躊躇する。」という状態です。
幸い「お願いします。」と言われることのほうが多かったんで問題になってはいかなかったんですが、
あるとき深く自分の内面と向き合って考えてみたときに嫌なことがわかりました。
カッコつければ、
「お願いされたものしかやらない。」
「お願いしてまではやらない。」
ともとれますが内面は全然違います。
ビビってたのと、逃げてただけです。
”仕事”としてお金を請け負って何かを行うという意識が足りてなかっただけです。
どういうことかというと、
「お願いされたから受けた。
相手は自分のことを知ってて頼んだんだから、文句言われても知らない。」
こういう最強の言い訳を準備したかったんだろうなと。
楽ですよね?
「え?俺頼まれたからやっただけだけど?じゃ最初から頼むなよ!」
って言えますから。
逆に言えばこちからお願いして仕事をしたときに、
期待を越えられないと言われるのも思われるのも嫌なんです。
責任を果たすって、全力でやることはもちろん、
その結果の批判とかもしょうがないと受け入れる覚悟だと思うんですが、
ここはお金を積極的にもらいにいかないと避けることができて便利なんです。
こういう自分の内面に気がついたときには、かなり落ち込みました。
だってまあまあダサいですよね(笑)
ビビリな性格は治ってないですが、少なくても仕事ではプロでいようと思うんで、
それからはその手の逃げはうたなくなりました。
結果、面白い仕事もたくさんできるようになったし、
自分のスキルも上がった気がするんですよね。業績も上がりました。
僕のケースは「ずるい」感じでみっともない度が高いんですが、
もしあなたが「お金をもらうことに躊躇する。」と悩んいでる場合でも、
懇願されたりした仕事や、友達からの依頼だったら、躊躇しない人って多いと思うんですよね。
つまり気が弱いってオブラートにつつまれてるだけで、
本当はたんに覚悟が足りないだけだったりします。
腹をくくってるかどうか?とも言えます。
お金をもらってその仕事をやる。期待を越えない場合は批判される。
そういう単純な構造をちゃんと理解しているかどうかだと思うんです。
もちろん、覚悟が必要なくらいならお金なんてもらわなくて良いというなら別にいいのです。
ずっと責任を回避しながらビジネスの世界から離れていればいいのだろうなと。
でもそうじゃない場合は、一度自分の腹のくくり方について向き合ってみたほうがいいと思います。
ちなみに覚悟を要するっていったって、所詮サービスです。
単に「ちゃんと仕事していく。」だけです。
エベレストに登るとかじゃないから、
大したことじゃないと思うんですよね。
では。
【雑談】ニューヨークにて
最近ちょっと興味があって仏教の本を何冊か読んだんです。
ゴータマ・ブッダの生い立ちの話から、
インド、中国などでどう広まっていったかなんて話もいろいろおもしろかっったですが、
僕が日本の仏教で僕が一番記憶に残ってるのは、
法然さんというお坊さんが、
「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行ける。」
と解いてものすごく民衆に支持された話。
それまでは解脱のためには修行が必要だったのに、潮目が変わったのだろうなって思うんです。
疫病とか流行りまくってて絶望感に覆われたって時代背景もあるとは思うんですけど、
やはり人は元来楽をして結果を得たいものなんだろうなって思います。
ま。その話はおいといて、僕が数年前ニューヨークでセミナーをやったときの話。
お腹が弱い僕は海外にいくと1日目は必ずお腹をこわします。
ニューヨークでも当然お腹を壊したんですが、
もよおしたのがちょうど大雨強風でマンハッタンの店が何もない道端。
まじでピンチでした。
早歩きでうろいろして、なんとか1軒だけ見つけたなんの店かわからない店に飛び込んで
英語なんだから日本語なんだからわからない言葉でお願いしてトイレを借りることができました。
命拾いした僕がトイレからでたら、
不安そうな日本人を不憫に思ってくれたのか、
暖かい紅茶を勧めてくてくれました。
とにかく店の方は終始満面の笑顔。
結果そこはカフェ機能もあったんでお客様として扱ってくれたのかもしれませんが、
「なんて優しい人なんだ。」と思って感動していたんです。
その日は会場で打ち合わせがあったんで慌てて店を後にしたんですが、
後日また同じ店に今度は普通にコーヒーを飲みに行ったんです。
1回目では気がつかなかったんですが、改めて店の中を見回してみるとですね
その店は中華系の仏教の流れを汲む新興宗教の集会所にもなってるみたいでした。
当然興味津々でみている僕に店の方は満面の笑顔で「ご興味ありますか?日本語の経典もありますよ。」
みたいなことをおっしゃってました。
もちろん丁寧にお断りして店を出たんですが、
もし僕が1人でNYに移住して、仕事も人間関係もうまくいかなかうて、
孤独に耐えているときだったりしたらずっぽりハマったかもしれないなーと思ってたのを思い出しました。
人生タイミングとか偶然でなにがどうなるかわかりませんね。
でも僕をよく知る人から言わせると「あなたは絶対にそうならな。」って断言されるんですよね。
なんでだろ。やっぱりコテコテの現実主義者か仕事ばっかしててそんな暇ないように見えるのかな(笑)